PROJECT STORY

アスカネットのこれまでとこれから

STORY 01

東日本大震災、その時

フューネラル事業

※所属部署、掲載内容は取材当時のものです

集合写真

社内報 ASUKA-RU × 採用広報の合同企画「アスカネットのこれまでとこれから」第1弾として、
吉宗さん、東條さん、近藤さん、森さんにお集まりいただきお話を伺ってきました。

今回伺うお話は、2011年3月11日に起こった東日本大震災についてです。
近藤さんは千葉幕張で被災、その他の方々は広島や愛媛とバラバラの位置にいたそうです。
それぞれが感じた東日本大震災とはどのようなものだったのでしょうか?

MEMBER

吉宗 裕文

吉宗 裕文

取締役
フューネラル事業部長

1996年入社 / 広島フューネラルビル

東條 弘幸

空中ディスプレイ事業部長

1998年入社 / 広島本社

東條 弘幸
近藤 充廣

近藤 充廣

フューネラル事業部
オペレーショングループ

2000年入社 / 千葉ベイサイドオペレーションセンター

森 英治

フューネラル事業部
マーケティンググループ

2001年入社 / 広島フューネラルビル

森 英治
高宮 悠治

聞き手

高宮 悠治

ASUKA-RU編集長
戦略企画部 IT推進グループ

2005年入社 / 広島本社

災害直後

それではみなさんよろしくおねがいします。まずはみなさんがどこで震災の第一報を知ったかお教えいただけますか? まずは千葉で被災された近藤さんからお願いします。

当日は夕方だと思うんですけど、ちょうど立ちながら作業をするパネル貼りをしていたんです。そしたら立ってられないくらい揺れまして。近くにあった観葉植物も全部倒れてしまって、もう立っていられなかったんでその場に座り込んで揺れがおさまるのを待ちました。

おさまったあとに…

みんなで「今のヤバかったね」とか言ったあと、倒れた木を元の位置に戻さないと!って思って立ち上がったんです。その当時幕張の17階のビルに事務所があったんですけど、そこから外が見えて目線の先に市原のコンビナートが見えたんです。その目線の先のコンビナートで映画みたいな大爆発が起こっていたのを見てTVで観たNYの9.11(アメリカ同時多発テロ事件)と被りました。

社長、かっけー!

それから避難訓練でしか聞いたことのない館内放送が流れてきて避難を促してくるんですが、こっちは届いてる加工依頼書(遺影写真の背景や着せ替えなどの仕上がりを指示する書類)をほったらかして逃げるなんてことしたことないので、どうしたらよいものか?って思っていたら、たまたま千葉に来られていた松尾社長(当時:松尾部長)が館内放送が流れるやいなや開口一番「下に降りるぞ!逃げるぞ!」と判断してくださり全員で17階から脱兎の如く駆け下りました。

インタビュー風景01

事務所が入ってたビルが大きいビルだったので同じビルに入ってるみなさんも一気に1階を目指してて数百人規模での大移動でしたね。そのとき先陣をきって「みんな、降りるぞー!」って言ってた松尾社長を横目に見ながら「社長、かっけー!」って思ったのをよく覚えています。

それで下に降りられて…

そこから点呼を取って、30分くらいして落ち着いたときに「これ、加工依頼書ほったらかしてるのヤバいかもね」ってなって、松尾社長と当時の役職者と僕とで加工依頼書を取りに17階まで上ったんですよ。
必死に階段を駆け上るんですけど13階が休憩フロアなんですね。松尾社長は階段一段飛ばしくらいのスピードで駆け上がってたんですけど、僕は13階の時点で足がパンパンで休憩したくて…でも、社長がグングン上って行くので僕も休憩せずにノンストップで17階まで上りました。
そこで目に付くFAXを掻き集めて下に降りて広島に残作業分を連絡したってのが最初の流れですかね。松尾社長にはその後、僕が貼ってたパネルをお客様のところにレンタカーで納品にも行っていただきました。

その頃、広島では

吉宗さんはその時は?

たぶん千葉のみんなが避難した時に連絡もらってそこから電話とFAXを広島に転送するようにして、さっき取りに行ったって言ってた加工依頼書を確か写真に撮ってメールで送ってもらったんですよ。

あ~そうですね。そうでした。

千葉でそんなことが起きてて広島でももうニュースになってたから、すごいことになってる!ってなっていて、当時G1(広島オペレーションセンターにある遺影加工部署)に千葉の加工依頼書や電話を全部まわしてたんだけど、すぐキャパオーバーになってしまって。
全体で対応はするんですけど、これはとんでもない状態になっていくぞ!と感じたのが第一印象ですね。

インタビュー風景02

その後、TVつけたらもう仙台とか福島には津波が来ていて、状況は把握していくのですが、これはすごい状況になってきたぞ。と思っていた直後に対策本部が立てられました。
ねぇ。(東條さんに向かって)

ええ、そうですね。

あ、その日は東條さん休みだったような気がするね。

当日はいなかった気がしますね。でも大変すぎて僕当時の記憶、飛んでますからね。

そうなんですか?!
東條さん、その日たしかパーマかけに行ってたんじゃなかったでしたっけ?

いや、坊主にするんじゃなかった?

散髪は災害の後、一区切りがついたあとよ。それは覚えてる(笑)
自然と対策本部ができてリーダーが集まって、割と早い段階で指揮系統が出来上がってた気はするね。

先ほどの話だと当日は松尾社長は千葉におられるんで広島では吉宗さん中心で本部ができたという感じでしょうか?

新山さん(執行役員 / 管理部長)もすぐ駆けつけてくれて役割分担を決めていきましたね。当時、消耗品や額の手配をどうするか?というところを東條さんに担ってもらいました。あとメンテナンスかな? 結局、新潟から先は行くことができなかったので「どうする?」って感じでしたね。

物流はすぐに止まりましたもんね。

全然。気にせんで!じゃ行ってくるけぇ

うちのメンテナンスのメンバーが新潟近辺のお客さんのところに消耗品、額、インク、紙とかを配達するっていうことをしてましたね。あと、木原さん(当時:フューネラル事業部 / 現:フォトブック事業部 プロダクトグループ)が必要な物資を新潟に届けてくれたりしましたね。

そうそう、額メーカーさんとかに連絡取れたときに「必要なものはなんですか?」って聞いて必要な物資を持っていきました。
ちなみに木原さんに長距離の運送をお願いしたのが僕なのですが、本当に危ないところに向かわせてしまうので申し訳ない気持ちが強かったんですけど、木原さんに「全然。気にせんで!じゃ行ってくるけぇ」っていつものテンションで言ってもらったときは救われましたね。

インタビュー風景03

一方その頃、森さんは?

僕は愛媛にいました。
愛媛にメンテナンスに向かってる最中に野上課長(当時:マネージャー)から第一報で「海に近づくな。東北で大きい地震があった」って言われて、海に近づかないようにお客さんのところをまわって、ホテルに戻ってニュース観て「とんでもないことになってる!」っていうことを認識しました。
その後、「どうしたらいいですか?」って野上課長に連絡したら「明日、朝一から広島に戻れる?」ってことで次の日の朝5時とか6時に起きて対策本部のある広島に戻るっていう動きでしたね。

インタビュー風景04

災害発生2日目以降

2日目からはどんな動きになるんでしょうか? やはり対策本部中心で?

そうですね。千葉と広島で動きは違うんですが、千葉のほうは…

TV会議みたいな感じでネットをずっと千葉と広島で繋ぎっぱなしにしてましたよね。

2日目以降は千葉のほうではPCをオペレーターさんの自宅に送って在宅で作業ができるようにしてたと思います。

そうですね。配達しつつ出勤できない人は自宅待機にしてって感じでしたね。
千葉は2日目にはコンビニからモノがなくなってました。物流も完全に止まってました。カップラーメンとか何もないんですよ。すごい状態だなって思いました。
3日目かな?僕、米を買いに行ったりしました。米を買って非常用の炊飯器で米を炊いて社内で炊き出しとかしました。
そんな状況を目の当たりにしながら広島の対策本部と話をした結果、千葉では業務ができない!って判断して広島に行くことになったんですよ。たぶん3日目くらいから一部のメンバーは広島に行きましたね。僕は1か月だったんですけど、2週間交代くらいで前半後半って決めて広島に移動しましたね。

広島は当面全員に出社してもらって加工依頼を全員でカバーする。という状況ですね。

広島は千葉のみんなの作業場所とか確保するの大変だったりしたんですか?

作業場所は作りました。会議室などの机を作ったり回線やFAXの準備をしてって感じでした。千葉のみんなが来る頃にはリモートで通信できる環境が出来上がってたと思います。

レンタカーに荷物をパンパンに積んで東北へ

2日目以降の消耗品とかってもう運べないって分かっていたかと思うのですが、そのあたりはどんな対応をされたのですか?

運べないエリアの注文が来た場合はもう我々が持っていくしかないのでサポートの方と連携をしてって感じです。場合によっては東に持っていくのに西から持って行ってどこかで中継を挟んで東の先のほうまで運ぶとかっていうことをしてましたね。

倉庫借りたよね? 北海道と2か所。

北海道と新潟に借りましたね。

倉庫借りてそこに消耗品を送って、そこからサポートが持ちだして配達するという。

森さんもやっぱり応援とかに行ったんですか?

僕は4日目から北海道に入って荷物の受け取りと配達ですね。待っていられなかったんで運送会社に荷物が届いたってなったらその荷物を運送会社に取りに行ってっていうのを1日に何十往復もしましたね。当時の営業担当と2人で荷物を取りに行き、受け取った荷物を倉庫の中に詰めて資材の整理をしてました。

北海道は航空便なので荷物は割とすぐ届いたよね。

僕が北海道について3日目には全部届きましたね。次はレンタカーに荷物をパンパンに積んで東北へ向かいましたね。夜中に札幌の倉庫を出発して函館に向かいました。

函館からはフェリーですか?

そうです。函館で大量の食糧を買ってフェリーに乗り込みましたね。現地は何もないって聞いてたんで。そして青森に入って岩手、秋田、山形のほうまで全部まわりましたね。高速が使えないので一般道で通れる道を探しながら走りました。当時は雪がまだすごく多かったですね。

3月半ばでも雪結構あったんですね。

すごかったですよ、雪。で、荷物をお客さんに届けた後、本社に「●●さん荷物届けました。みなさん、ご無事でした」みたいな連絡を逐次入れました。

インタビュー風景05

お客さんもこっちも非常時だから大変でしたね。

難しかったのが、この時期くらいから葬儀が再開されていていつもより葬儀が多いんですよ。

まとめて入ってきてたよね。

ということは使用される消耗品も多いと。

そう、供給が追い付かなくて必要最低限しか配れないんよね。そのやりとりはすごい苦労して…。広島の消耗品センターに連絡が来るんだけど必要最低限しか配られないので、「即納は難しいです。とりあえずこの数量で間に合いますか?」とかって交渉するんだけどお客さんから「こっちの状況わかってんのか?!」ってお叱りを受けたりしてっていうのが多発していて…。お客さんもこっちも非常時だから大変でしたね。

こういった状況って結構続いたんですか?

物流が復旧するまでには半年以上かかってますね。

僕は最初の2週間くらい荷物の配達をしてましたね。届けたお客さんはすごい喜んでくれたのを覚えてます。途中でやっぱり津波被害のあった地域を通ったりもするんです。
車がひっくり返ってたりとか大木が横倒しになってるような道を通ってお客さんに荷物を届けに行くのでお客さんからしたらそりゃ「よく来てくれた!」ってなりますよね。

同じような遺影写真を作ってる会社でここまでやってたのはアスカネットだけでしたね。他のコンペティターは何もできてなかったと思います。

管理職の気持ちと信頼の差別化

でも管理職からしたらそんな危険な場所に出張に行かせるってなかなか指示が出せないですよね。

今はね。

実際、ご家族から反対されてるっていうのはありましたし、そういう中で指示を出す側の辛さっていうのはありました。

これは松尾社長がご自身の判断で指示をされてコストをかけて実施されたんですよ。社内でも反対意見もあったと思うのですが、松尾社長の「やる」という判断をして実施したという経緯があります。だから今、他のコンペティターとは信用の差別化ができています。

近藤さんはメンバーを分けて広島での作業が始まるとどんなご苦労がありましたか?

広島に行くといっても一部のメンバーしか行けていないので広島のみなさんに全員出勤してもらって助けてもらってました。みんな1週間くらい全員出勤だったのではないかなと思います。それに加えて業務はできるのですが、いつもとフローがどうしても違ってしまって効率が落ちるんですね。効率が落ちちゃうと加工依頼や問い合わせが溜まっていって最初のほうはみんな泣きながらやってましたね。毎日訳が分からないって感じでした。

インタビュー風景06

可部のウィークリーマンションにて

(可部:広島市安佐北区可部町)

近藤さんには更に私たちと一緒に対策本部の活動もしてもらってたので毎日深夜まで頑張ってもらってました。

そうですね。いきなり生活スタイルが変わるのはキツかったですね。
千葉から行ったみんなと可部のウィークリーマンションに泊まってたんですけど、いきなり移動したので初日にまず洗剤とかをドンキに買いに行ったりして学生寮みたいな暮らしをしてましたし。
しばらくするとメンバーは少しずつ休みが取れたりするんですけど、そんなときに「暖房がつかない」「シャワーからお湯が出ない」っていう問い合わせがなぜか僕にあるんですよ。「俺、大家かよ!」って思ったのは今でもよく覚えてます(笑)

全社からのサポート

ブック事業部の責任者以上の方が土日返上して写真の取り込みの手伝いをしにきてくれました。最初は当然分からないと思うのですが、どんどん手際が良くなっていって驚きましたね。僕らもゆっくり教えている暇はなかったので最初にザッと説明するだけなんですけど、独自のマニュアルをどんどんブラッシュアップされててすごいな!って思いました。

管理部も電話受付とかをしてくれたりと社を挙げてフォローしてもらいましたね。
あと広島のオペレーションはお昼をとる時間がなかったので、弓場さん(当時:フューネラル事業部 / 現:マーケティング推進室 課長)たちが毎日イオンにランチパックを買い占めに行ってくれました。毎日100個くらい買ってきてもらってましたね。

東條さんもランチパック食べて頑張ってたんですか?

いや、記憶にないですね。食事をした記憶がないです。本当にすごい忙しかったですよね。

記憶してる限りで一番大変だったことって何ですか?

さっきも言った通り、葬儀が通常に戻り始めて資材が足りなくなったときが大変だったというのは記憶にあります。

額なんですよ。額を確保するのが本当に大変なんですよ。

今でこそメーカーさんを増やしてバックアップができてますけど、当時は少なかったんですよね。

インタビュー風景07

1日600キロ以上走ってる人間からすると助けになるし、
元気が出ました

森さんが一番大変だったことって何ですか?

資材がないのはもちろんですが、当時は今みたいにスマホがないので、どこが通れるのか?っていう情報を仕入れるのが一番大変でしたね。行って通行止めっていうのも結構ありましたしね。

地図で印とかしてたよね?

そうです。ホワイトボードに今、どこに誰がいるか?っていうのを掲示してくれてて電話で「何号線通って」とか指示をもらってました。
あと、みなさんから「大丈夫か?」っていう電話をしょっちゅうもらってたんですよ。これは一番印象に残ってますね。当時1日600キロ以上走ってる人間からすると助けになるし、元気が出ましたね。

道の情報がないのはキツいですね、それに新たに崩れたり逆に数日後には通れる道とかもあるんでしょう?

そうそう、でも本社から毎日更新情報が届いてたのでへこたれずにできました。

インタビュー風景08

非日常の中でのマネジメント

近藤さんが一番大変だったことって何ですか?

さっきも言った通りですが可部での生活ですね。自分のこともそうですが、オペレーションの子たちが限界になってないかな? 限界にならないようにケアをしないといけないな。って思って試みる非日常の中でのマネジメントが一番大変でした。
みんなの士気が下がらないように頑張ってはみるのですが、ま、結果としてはどうしても下がっちゃうんですけどね(笑)

いろいろ対策をされてたんですか?

休みの日に外に連れ出したりとかですかね? でも逆に火事場のクソ力じゃないですけど、非日常な環境だからこそ成長が早まった子がいたりしましたね。

近藤さん自身はご自身にどんなケアをしてたのですか?

深夜0時頃に吉宗さんと男二人で可部のジョリーパスタでご飯食べたりして話を聞いてもらってました。深夜に男二人でジョリーパスタ。気持ち悪いでしょ?

それは奢ってもらえたりするんですか?

吉宗さんはもう、いつだって奢ってくれますよ(笑)
そういうときじゃなくてもたぶん(笑)

インタビュー風景09

心がずっと締め付けられる

吉宗さんが一番大変だったことって何ですか?

一番は社員のみなさんに無理をさせていたので非常に申し訳ないな。って気持ちをずっと抱えてました。心がずっと締め付けられる感じでした。

吉宗さんの心が解放されるのって?

千葉のオペレーションセンターが再開されるときですかね。

結構長いですね。

長いですね。1か月くらいずっと締め付けられてました。

インタビュー風景10

写真を止めない!写真を提供し続ける!

この災害から学んだことや今に活きていることって何ですか?

災害発生後しばらくしてから誰も指示しなくても動き始めるようになったことですかね。扱ってる商品が遺影写真っていうのもあるんでしょうけど、みんな知らぬ間に誰に言われるでもなく「何がなんでもこの写真を届けるんだ」っていう目標を共有して同じ方向を向いて頑張ってくれるんです。フューネラル事業部って素晴らしいなって思います。

そうですね。“写真を止めない!写真を提供し続ける!”っていう一点にみんなが集中してたのは今にも脈々と繋がる流れですよね。

森さんは?

一番困ったのが燃料だったので、燃料は半分切ったら満タンにすることですかね。空っぽだったらいざというとき何もできないですからね。

吉宗さんは?

びわこオペレーションセンターを立ち上げたことです。3拠点に分散させたっていうのが一番ですね。先ほどの近藤さんのコメントにもあったように“写真を止めない!写真を提供し続ける!”というのはアスカネットの、フューネラル事業部のプライドですし。心ある行動指針にも繋がりますが、誠実な行動で社会から信頼を積み重ねていけるようこれからも進化していきます。

ありがとうございました!

集合写真

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